先日の記事で私には学歴至上主義、高偏差値校合格=人生の成功者などという考えは微塵もないと書きましたが、高学歴を否定するわけではありません。
私の考える学歴とは「多感な時期にやりたいこと(遊び)を抑え、やらなければいけないこと(勉強)に時間を投資した証」だと思っています。
社会活動において何ら成果や経験がない方を短時間で選考しなければならない場合に、非常に有効な「人物証明書の一つ」となり得ると思っています。
いわゆる「学歴フィルター」とはそのような考え方に基づいており、その後のフェイスtoフェイスのコミュニケーションにより、社会人として大切なコミュニケーションスキルを見た上で最終的な採用を決めていくということです。
これらをイコールで結びつけることはできないため、高学歴≠社会的成功者となはらないということです。
文部科学省のHPの義務教育の目的、目標にこのような文言がある。
「義務教育には,憲法の規定する個々の国民の教育を受ける権利を保障する観点から,個人の個性や能力を伸ばし,人格を高めるという側面がある。子どもたちを様々な分野の学習に触れさせることにより,それぞれの可能性を開花させるチャンスを与えることも義務教育の大きな役割の一つ」
勉強だけが全てではない。ただ社会では「学業という統一のルールの基づいた努力の数値化」を採用する選考方法が最も多く、それゆえ努力のコスパが一番いいと言える。
大人はそれをよく知っているので、我が子に「勉強しろ」というのだと思う。
最も多感な時期であり、反抗期にあたる小中学生にはそれらのことは親の口から言っても響かないので塾という存在が必要なのだと私は思っている。
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